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ガーデナーの視野 [├ガーデニング・エッセイ]

ガーデニングのブログやWebサイトを見ていると、花の写真がある。まぁ、当然であろう。だけど、思いのほか庭の写真は少ない。庭の全景どころか、花壇の写真もあまり見かけないように思う。

私は、ガーデニングと園芸を別のものと考えている。ガーデニングの要素として、大きく「園芸」と「造園」があり、庭を中心としたとき、よりミクロな視点が「園芸」であり、よりマクロな視点が「造園」である、と。そして、「花」の写真は、「園芸」的な視点と言える。(参考:ガーデニングって何だろう?

私は、園芸をやりたいのではなく、庭づくりがやりたいと思っていたので、花の写真ばかりで、庭の写真が少ないことに不満だった。だから、このブログを始めるとき、花の写真より庭の写真を、と考えていたし、そうするようにもしてきた・・・つもりだ。そして、やってみてわかったことは、それがかなり難しいことである、ということだった。

第一に、余分なものが写る。私の庭の場合、更地に家を建てただけからスタートし、ほんとに一から、少しずつ造っている。だから、完成した場所以外には、資材やら道具やらゴミやら、いろいろなものが散乱している。庭の全景を撮ろうとすると、そういうものが写りこんでしまう。ある程度、全体が出来てきた今でさえ、雑草は生えているし、未完成の部分はあるし、植栽は物足りないし・・・ようするに、全体としてなかなか絵にならない。全景を、そこそこいい感じに(自己満足であるが)撮れるようになったのは、ほんとに今年くらいからだ。

第二に、一年の変化があるとはいえ、絵的に大きな変化があるわけではない。今は、造っている最中だから、作業過程による変化がある(まぁ、これが今のところ「ウリ」ではある)。だけど、完成した庭を撮影しようとすると、変化に乏しいことがわかる。うちの場合、フロントガーデンが最も古い花壇だが、常緑樹が多いこともあり、一年を通してさえ、あまり代わり映えがしない。なんかいつも同じものを撮っているような気がしてくるのだ。

だんだんと、全景よりは、花壇を、そして花、とミクロな視点での撮影が増えてくる。ブログのような日記のような仕組みではなお更で、日々の庭を紹介しようと思えば、「芽が出た」、「花が咲いた」、「実がなった」などとなり、花壇さえなかなか写らない。


最近、浜名湖ガーデンパークのモネの庭(参考:カテゴリ「★ガーデン訪問記>庭園・公園>浜名湖ガーデンパーク」)を紹介していて気がついたことがある。「花の庭」の紹介に比べて、「水の庭」の紹介が圧倒的に少ないことだ。もっとも、紹介したくても、撮影をした写真の枚数自体に大きな差があるのだ。以前、「浜名湖花博で毎週のように通ったが、花の庭をうまく撮れたと思ったことがない」というようなことを書いた(参考:浜名湖ガーデンパーク - モネの庭(2006年4月29日))。そして、当時より撮影しやすくなった今の「花の庭」を見て、視野に変化があることに気がついた。

浜名湖花博当時、私の視野は「庭」だった。フロントガーデンと駐車場の形が出来ていたとはいえ、メインガーデンは迷いながら造っているところで、バックヤードにおいてはほとんど手付かずだった。全体の構成を抑えるので精一杯で、細部にはまったく目が届かなかった。

これを考えると、当時、メインガーデンに迷っていたことも納得できる。バックヤードが手付かずのままなのに、その風景の一部を取り込まざるえないメインガーデンの細部について考えることは困難だったのだ。結局壊してしまった(壊れた?)壁(参考:2003年夏(4) - 壁)などは、メインガーデンに集中するには、バックヤードとの境を仕切る必要があったと感じていたのだろう。壁をしっかりと作らずに、すぐに壊れてもいいように作ったのは、そうすることに迷いもあったのだ。

当時、モネの庭は「水の庭」の方が個人的評価は高かったと思う。フォーカルポイントもなく、全体からも、花壇からも絵を取り出すことが出来ず、わけのわからない印象だった「花の庭」に比べて。今、「水の庭」は、あまり面白くない。絵にはなる。睡蓮の咲いた池と太鼓橋。だけど、我が庭のフロントガーデンを撮影しているときの気分と同じものを感じる。「何度も撮ったじゃないか」と。

バックヤードの概観がまとまってきて、意識が花壇の中の個々の花の組み合わせに向かっている今、「花の庭」が面白い。さまざまな花の形と色、その組み合わせのよさ。そして、モネの庭は、目の前のひとつの花壇だけの組み合わせでは終わらない。その隣の花壇、そしてさらに先の花壇を含めた、花壇の組み合わせの面白さ。知識ではなく、感覚的にそのすばらしさがわかる。カメラの使い方も変わった。広角での撮影から、望遠での撮影へ。広角では、遠景の花が小さくしか写らず、全体としてまとまりがないとしか見えなかった庭。望遠により遠景の花が近づくことで見えてきた庭。(といってもコンパクトデジカメなので、たかが3倍ズーム・・・一眼レフが欲しくなってくるなぁ。)

新しいステージに上がったということをここでも意識させられる。イベント用のいわゆる「ニセモノの庭」において、個々の植栽が気になるようになったのには、明らかに視野に差がでてきたからだ。以前は、全体の構成を意識していたため、造形物やその構成の方が興味の対象になっていたのだ。(参考:次のステージへ - ホンモノの庭とニセモノの庭、植え替えということ


「庭」という視野から、「花壇」という視野への変化。ガーデナーとしての視野が広がることで、庭の楽しみ方が増える。今は「花壇」への興味が高い。だからといって「庭」の視野を忘れることはない。「庭」と「花壇」そして「花」、マクロとミクロの視野の切り替えが、よりよい庭を造る重要な点だと思う。

私の庭は、マクロな視野にようやっと耐えられる最低限のレベルに達したが、ミクロな視野にはまったく耐えられない。造園的なマクロの視野で造ってきたが、それだけでは、鑑賞に堪えられる庭は造れない。

園芸好きな人の庭は、花は多いが、なにか雑多な感じがして、まとまりに欠けることがある。「花」というミクロな視野が優先されるため、マクロな視野に欠けてしまうのだろう。自分の造っている庭から、そういう感じを受けるならば、一歩引いて庭を見ることをお勧めする。そうそう、二階から見る、というのもいいかもしれない。花は小さく見えなくなり、庭全体の構造が見えてくる。(参考:上からの景色と雨の日の緑

ガーデナーには全方位的な視野が必要なのだと思う。


「ガーデナーの行きたいところ」リスト [├ガーデニング・エッセイ]

「行きたいところリスト」というのを作っている。

出張で東京に行ったとき、時間に余裕があると庭園や公園を探して行ったりしていた。東京には、古い庭園が残っていて、探すとけっこうある。だけど、急な出張でいざ探そうとすると、意外と見つからなかったりする。次の出張のために、事前に探しておけば楽だろう。(最近は、出張がなくて使えないけど)

庭園を目指してちょっと遠出、というのも増えた。だけど、行ったことのないところだ。わざわざ遠出したのにハズレだったらどうしよう?第一目的地の近くや通り道で他にもよさそうなところを探しておけば、そういうときにリカバリーできるかもしれない。ひとつひとつはイマイチでも、2~3箇所まわれば、それなりに満足はできる。

それに、近場だって、それなりにいいところはある。まとめておけば便利だろう。

いつごろからかは覚えていないが、まぁ、そんな目的で作り始めた。

最初は、リンク集のようなものだった。だけど、似たようなものはけっこうあって、単に似たようなものができるだけだったりする。それに、これは意外と使いにくい。地域別になっていても、場所がぜんぜん分からないので、近いのか遠いのかさっぱり分からない。いちいち地図で調べて、一緒に寄れるほど近くないことが多くてがっくりする。

そこで、地図上にマッピングすることにした。「MapFan.net」というソフトを使った。これは、オンラインで地図情報を取得するため、常に最新の地図を見ることができる。CDの地図ソフトだと、古くなると買い換えないといけなくなるが、これだとその必要はない。利用料金は年間定額で、ソフトの買い替えを考えると高くもない。インターネットの地図ソフトと違って、マウスでドラッグできるのも便利だ(最近は、Googleマップなど、インターネット上でもマウスでドラッグできる地図サービスもあるが)し、自分用のマップポイントのブックマークを作ることもできる。

雑誌などで紹介されている庭園を地図上にポイントする。地図で見ると意外と近かったり、少し遠回りをすれば寄れそうだと分かったりする。ポイントの近くの地図をよく見ると、花のアイコンがある。植物園だったり、公園だったり。名称から、インターネットで検索して、紹介ページをリンクする。

そうして気がついてみたら、偏りはあるけど、けっこうな箇所がポイントされていた。ただ、これは公開することができない。ブックマークデータを公開してもソフトが制限される。家族で使うのがせいぜいだった。

そんなとき、「ここまる」という地図サービスがあることを知った。地図を中心としたSNSサービスで、ようするに特定のテーマの地図ポイント集が作れる。「これ、いいじゃん!」というわけで、ローカルで作っていた「行きたいところリスト」を移した。題して、「ガーデナーの行きたいところ」。まだ、全部は移してないけど、めぼしいところは登録したので公開することにした。良かったら見てください。

行った所も登録してあるけど、ほとんどは行ったことのないところ。どんなところかはよくわかっていない。「もっといいところがあるよ!」とか「ここは行くほどじゃないよ!」という場所がありましたら教えてくれるとありがたいです。掲示板などの機能はユーザー登録しないと使えませんが、登録は無料です。

あと、良かったら、あなたの「行きたいところ」も登録しませんか?ユーザーが協力して作れるのも「ここまる」のいいところ。みんなで作って、「ガーデナーのぜひ行くべきところ」にバージョンアップできたらいいなぁ、とか思ってます。

リンク


次のステージへ - ホンモノの庭とニセモノの庭、植え替えということ [├ガーデニング・エッセイ]

何事につけても「ステージ」というのがある。段階とかレベルとか言ってもいい。小説や舞台なら「章」や「幕」あるいは「場面」。パラダイムというと、ちょっと大げさか。

「国際バラとガーデニングショウ」に行って、ガーデナーとしての自らのステージが変わっていることに気がついた。パラダイムシフトは、変化した後でないと気がつかない。

そもそも「国際バラとガーデニングショウ」に行ったのは、単に有名なイベントで行ってみたい、という気持ち以上の、もっと切実とした想いがあったからだった。

時は少しさかのぼり、2003年ごろのこと。ガーデニングに行き詰まりを感じていた。ガーデニングにハマったときの初期の高揚は過ぎ去り、実家の庭は当初計画していた構想をほぼ実現し、自分の庭も持ち、順風満帆に思えたころ、ふと気がついた空虚だった。何かが足りない、そう思えた。

その「何か」を求めるために「国際バラとガーデニングショウ」に行ってみよう、と思った。だけど、2004年には「浜名湖花博」があり、2005年には「花フェスタ2005ぎふ」があり、結局2006年になってしまった。このブログを始めたのも、その「何か」を求めるために、自分の考えを整理しようと思ったからでもあった。

初めて行った「国際バラとガーデニングショウ」は、予想通りすばらしいものだった。展示されている庭のレベルの高さは、目を見張るモノが確かにある。でも、物足りなさは埋まらなかった。「見たいのはこれじゃない。ホンモノの庭だ。」一緒に行った母に、そう言った。

それから、ふと出た「ホンモノの庭」という言葉が、頭を離れない。

ショウのあれは「ニセモノの庭」だと思う。一週間のイベントのために造られた、終われば取り壊されてしまう庭だ。連休に行った浜名湖フラワーフェスタ2006で展示されていた庭に対する物足りなさも同種のものだろう。決して、田舎のイベントでレベルが低い、というだけでもなかったのだ。

「ニセモノ」と思ってしまう、ひとつの理由は、植栽にある。すばらしいバランスで植栽されているが、そのまま育てたらどうなるだろう?たとえばアサギリソウ。今の時期は背が低く、銀葉が美しい。だけど、これから夏に向かって背が伸びてくる。手前に植えていたあれらの庭では、そのころどうなるのだろう?

「植え替える」という方法がある。有料の庭園や公園であれば、季節に合わせて植え替えをする。季節ごとの見場を維持するためだ。イベントではあるが浜名湖花博が典型的だろう。植えてある、まだ咲いている大量の花を抜き、新しい花を植えていく。近場だったので毎週のように通ったが、一週間で花壇の植栽はまったく変わってしまう。

その花博で夏(8月くらいだと思う。暑い夏だった)のある日、休憩していると、隣に座っていた年配の夫婦の話し声が聞こえてきた。

おばさん: 思ったより花があるわね。
おじさん: 植え替えているみたいだぞ。
おばさん: うそよ~。こんな時期に植え替えても付かないもの!!
おじさん: (小さな声で)植え替えていたぞ・・・

おじさん、あなたは正しい。もっと自信を持っていい。おばさん、あなたの言っている事は間違っていないが、イベントというものを理解していない。根付かせるつもりなんてもともとないのだ。

「花博の最終日には、植えてある苗がもらえる」といううわさを聞いた。会期中、さんざん植え替えていても、抜いた苗を配ったという話は聞かない。最終日だけ、特別そんなことをする理由がない。「デマだよ」と一蹴した。明らかにデマだとわかるうわさが流れる。それは、事情を知らないからか、それとも知っていてさえ、やはりもったいないと思う気持ちがあるからか?

浜名湖花博は、園芸としては私にさまざまなものを残してくれた。だけど、ガーデニングとしては、空虚が埋まることはなかった。花博であって、庭博ではなかったのだ。

うちのフロントガーデンは、一年草で季節ごとに植え替えていた。植え替えは、5月の連休と10月末くらいの年二回。小さい花壇だから、植え替えの作業自体はたいしたことはない。だけど、そのころにはまだ花が咲いていて、一年草といえどなかなか抜けない。とはいえ、次を植えないと、成長が遅れてしまう。毎回、そのジレンマだった。今年の春を最後に、それを止めることにしたのは、季節ごとに植え替えるのが精神的に難しいからでもある。

たぶん、「植え替え」という方法に、なんらかの違和感があったのだと思う。

それを気がつかせてくれたのは「ポール・スミザーの四季のガーデン生活」というテレビ番組、そして彼の造った「宝塚ガーデンフィールズのシーズンズ」という庭だ。

ポールさんの庭づくりでは、雑草対策をしっかりやり、園芸品種を避け、原種系を好み、その土地にあった植物を使う。それは、草取りや花柄つみなど、普段のメンテナンスにかかる手間を減らし、より重要な(そして楽しい)メンテナンスに時間をかけるためではないかと思う。

プロならば、この短期間で植栽し、オープンと同時に観光客をうならせるほどに花を咲かせる、一時的な植栽法も知っているはずです。でも、ポールさんは庭を本当に美しいものにするためには植物に無理をさせてはいけないと思いました。・・・<略>・・・結果、開園時は土の目立つややさびしいガーデンで、「入園料を返せ」とまで言われました。

今では、開園時のガマンが功を奏して、38種類植えたバラも見事に育ち、日本では数少ない、バラがバラらしく魅力的な姿を見せるガーデンになりました。

(ビズ No.42 P.73)

ポールさんもすごいんだが、それを認めた経営者も英断だと思う。もしかしたら、ポールさんにだまされたのかもしれないが。:-P

「シーズンズ」という庭は、成長する庭なんだと思う。「植え替え」という方法で得る目先の変化ではなく、植物が育つことによる本当の成長、そして、その成長を効果的に見せるためにある庭。

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「ホンモノの庭」とは何だろう?それを考えていたら、空虚が埋まっていることに気がついた。明らかに新たなステージに上がったのだと確信できる。おそらくこの隙間は、庭への取り組みの方向性の欠如だったのだろう。庭づくりにはハマっていても、「イングリッシュガーデン風の」とか「ハーブ・ガーデン」とか「バラ」とか、特定の、目指すべきテーマは持っていなかった。どういう庭が造りたいのか、自分でもよくわかっていなかったのだ。結論はまだ出ていない。でも、ヒントはある。

※念のために補足しておくと、「植え替えをベースとする庭」を「ニセモノの庭」だと思っているわけではないです。


バラは好きではない、ということ [├ガーデニング・エッセイ]

バラは好きではない。正確には、バラに関する状況が好きではない。ガーデニング雑誌は何もなければバラ特集。新しくできるガーデン施設はバラ園ばかり。猫も杓子も、バラ、バラ、バラ・・・

あ、もちろん、バラが好きな人を非難したいわけではない。みんなが群がっていると避けたくなるのだ。私がひねくれているだけなのだ。バラ好きの人には、こういう状況はうれしいのだろうな。だけど、ひねくれ者の私には、バラは好きになれない花だった。

まぁ、もう少しまともな理由もある。

バラというのは園芸的なのだ。私は、ガーデニングは園芸(だけ)ではないと考えているから、園芸的な要素が強いものにはあまり惹かれなかった。

例えば、バラは、手入れが大変、というイメージがある。これが逆に人気のある理由でもあるのだろう。手入れが大変な植物を立派に育てているというステータス。まさに「園芸」である。

バラの写真は、花のアップが多い。私も、いろいろな庭のバラの写真を撮ってきて(というほど多くもないけど)、気がつくとバラの「花」の写真を撮っている。確かに、すばらしい花だ。まさに「花の女王」と呼ぶにふさわしい、形と色。

だけど逆に、庭としてバラが活かされているように感じられない。仕立てとして見事なバラとか、他の植物と組み合わせを楽しむバラとか、あまり見かけない。ローズガーデンというのは、たいていはいろいろな品種のバラが並べてあるだけで、庭としての面白みは少ない。結果的に「花」の写真を撮ってしまっているということが、それを示している。

「庭づくり」がしたかった私にとって、「バラ」というのはことさら重要なアイテムではなかったのだ。そんなわけで、ガーデニング雑誌でバラ特集があると(しかも、これがかなり多いわけだ)、「けっ。また、バラか!」とすねていたわけだ。

現在、私の庭には、ミニバラ4種と「ノックアウト」の5品種のバラがある。去年、購入したものだ。バラを自分の庭に取り入れてもいい、と考えるようになったのはどうしてだろう?たぶん、庭づくりに少し余裕が出てきたのだろう。バラを受け入れてもいいと思えるくらいの。

連休で手に入れた水盤にバラの花を浮かべる。ほんと、バラの花というのは、どうやっても絵になるね。


園芸の基本 - 環境さえあっていれば植物は育つ、ということ [├ガーデニング・エッセイ]

ポール・スミザーの四季のガーデン生活」は、BSフジで放送された。うちでは、まだ見れないので、友達に録画を頼んだ。その友達が、他の知り合いに見せたところ、「そんなことはわかってるのよ・・・」と言ったとか。確かに、初心者向きに作った番組ではある。説明している内容は、基本的なことだと思う。園芸をある程度やってきた人ならば、どこかで聞いたことのあるような・・・

ところで、「弘法、筆を選ばず」ということわざがある。「技術のすぐれた人はどんな道具を使ってもすばらしい仕事をする」といった意味だ。けれど、このことわざが引用されるときには、「・・・というが」と続く。つまり、「道具はちゃんと選びましょうね。」と言いたいときに使うわけだ。だけど、弘法さんって、道具をちゃんと選ばなかったんだろうか?

「筆」とは、字を書くための道具、のことではなかったのではないだろうか?辞書を引くと「書かれた文字、筆跡」という意味もある。私は、弘法さんは、ちゃんと道具は選んだのだと思う。その書きたい内容に合わせて。何も知らない人が、さまざまな筆を使うのをみて、「筆を選ばず」と思ったのではないだろうか?その人は、筆(筆跡)に対応した筆(道具)があることに気がつかなかったのだ。

基本というのは重要である。だからこそ、玄人は、そのことについて話さない。なぜなら、それはあたりまえのことだから。玄人が話すことは、何か難しく、すごいことのように聞こえる。それは、基本を中心としたバリエーション(変形)でしかないのだけれど、素人はそれを聞いて、「何かすごい技(奥義)があるのではないか」と思ってしまう。

園芸の本では、いろいろな事が細かに説明してある。だけど、ポールさんは「本には・・・とか書いてあるけどね。そんなに気にすることないから・・・」と言う。本に書いてあることは重要なことなのだ。事細かに説明してあることには、それぞれに意味があるはずだ。だけど、それは基本を守った上での話でしかない。基本を知らなければ、逆に間違いを犯してしまう可能性さえある。

特定の植物が「うまく育たない」という人は多い。やさしいと言われる植物であっても、その人には、なぜかうまく育てられなかったりする種類がある。そして、その失敗は、奥義 - なにか特別な技 - によって回避できると思ってしまう。

ポールさんは、種まきや挿し木、苗作りは非常に丁寧だ。元気で健康な苗を作る。選ぶときにも気を使う。そして、いい苗を、いい場所に植えつけると、「あとは、勝手に育つ」という。植物を育てる上での基本 - 本にもちゃんと書いてあることだけれど、あまりに基本的なことなので軽く読まれてしまうそれは、環境さえあっていれば植物は勝手に育つ、ということだ。

ポールさんは、その地域に自生している植物を使うことを薦める。これも同じことだろう。自生するくらいなら、その地域の環境に適しているのは当然のことだ。環境にあっていれば元気に育つ。健康であれば、病気にも、虫にも強くなる。薬剤も少なくてすむし、普段の手入れも楽になる。そういえば、件の番組では、薬剤散布の話はなかったように思う。

「奥義」があるのではない。植物がうまく育たないのは、おそらくはその植物がその人の育てる環境(置き場なのか、日照なのか、水遣りなのか、わからないが)に合っていないのだ。人にできることは、よりよく見えるようにするために、少しの手伝いだけである。そう思うと、件の番組に雑草対策の話が多いのもうなづける。


ガーデニングって何だろう? [├ガーデニング・エッセイ]

ガーデニングって何だろう?

以前、「ガーデニングが趣味だ」と言ったら、「ランとかを育てるのか?」と聞かれた。「それは『園芸』でしょ。」と言うと、「え?ガーデニングって園芸じゃないの?」と驚かれた。

まぁ、ほとんどの人は、「ガーデニング=園芸」と思うだろうか。

確かに、植物はガーデニングにとって重要な要素ではある。しかし、「園芸」という言葉は、「ガーデニング」を十分にあらわしていない。ガーデニングのTV番組に「趣味の園芸」と「素敵にガーデニングライフ」があるけど、二つの番組の違いといったらいいだろうか?少なくとも私にとっては、「ガーデニング=園芸」ではない。

「園芸」は、植物に重点が置かれる。特定の植物をどのように育てるのか?といった話になりやすい。「園芸」の世界において、より上達するということは、より育てるのが難しい植物を育てることに向かうこと、のように思う。件の「ガーデニング→ラン」という発想は、そのあたりから来ているのではないか。

では、「造園」だろうか?

私のイメージは、まだこの方が近いかもしれない。これは、私がガーデニングにハマったきっかけの影響もあるだろう。穴を掘り、花壇を作り、樹を植える。「植物を育てる」というよりは、どちらかというと「モノを作る」ことの楽しさから入ったから。

だけど、「造園」について調べていくと、「ランドスケープ」につながっていく。もちろん個人宅の庭も含まれるけど、公園や街並みと、そこから広がっていく世界であるようだ。

私には、街並みをどうこうしようなんてことはできない。私にできることは、せいぜい自分の土地に、自分が満足できるだけの庭を造ることだけだ。「造園」という言葉は、私には大きすぎる。

「園芸」は、庭(園)における要素である植物に、よりミクロな視点に向かう。
「造園」は、庭(園)から始まりランドスケープへと、よりマクロな視点に向かう。
では、出発点となった「庭」は?

「ガーデニングブーム」の前。もちろん、ハマる前のことなので、詳しくは知らない。だけど、今ほど「庭を造る」ということが意識されていただろうか?

玄関の周りなどのちょっとしたスペースにプランターが所狭しと並べてある家を、見かけることがある。決して庭が、土が、ないわけでもないにもかかわらず。あるいは、りっぱな庭があっても、自分で手入れをしているのは盆栽だけ、とか。なぜ、庭があるのに、それを活用せず、それとは別に植物を育てるのだろう?

そういう庭は、職人がやってきて手入れをするもの、そこに住んでいながらも自分たちのものではないもの、ではないか。「ガーデニングブーム」は、庭をそこに住む人の手に戻す、そのきっかけにならなかったか?

「園芸」でもなく、「造園」でもなく、「ガーデニング」という言葉が定着したのは、ただ「カタカナのほうがかっこいい」というだけではなく、今まで表しきれなかったモノがそこにあったからではないだろうか?

私にとって「ガーデニング」とは、「園芸」でもないし「造園」でもない。だけど、「園芸」の一部でもあり、「造園」の一部でもある。中心には必ず「庭」がある。ブログのタイトルにあるように「庭づくり」。それが、私にとっての「ガーデニング」である。

「庭とは何ぞや?」につづく・・・・か?

P.S.

ほんとうは、ブログを始めたときに書こうと思っていた内容。だけど、うまくまとめきれなかったので出し損ねていた。でも、まぁ、やっぱり書いておきたいと思うので、未完だけど発表しておく。


ネコジャラシ - 雑草ということ [├ガーデニング・エッセイ]

えっと、ネコジャラシ、でいいのかな?なんて呼んでたのか思い出せないのだけれど・・・

まだまだ暑いですけど、庭はだんだんと秋の装いに変わってきています。今日は、ふと思いついて、こんなことをしてみました。ちょっと秋気分。

これってイネ科のようだけど、一年草なのかなぁ?バックヤードでこんもりと茂っていたら、ちょっといいかな、と思うのだけど、どうしたらいいんだろう?

一般には雑草扱いだろうか。「雑草」というのは、元は農業用語だとか。ようは、そこにいらない草、ってことね。昭和天皇は、「雑草という草はない」とおっしゃったとか。そんなわけで、ガーデニングを初めてから「雑草」と言うのは避けるようになった。(つい、言ってしまうけど)。

で、バックヤードで「雑草がすごいから・・・」と言いながら草取りをする母親に、あまりにも根こそぎ抜いちゃうから、「雑草言うな~。それは、雑草じゃない。そこにあったら、かっこいいだろう。」と言い続けてきた。

それが通じたのか、最近は「草」と言うようになった。「これ『草』じゃないよね?(抜いてもいい?)」と聞いてくるようになった。「う~む、草だろ。樹木じゃないよね。」と応えているのだけど・・・かえって意味不明な会話になっていたりする。母親には、どうしても雑草らしい。


タグ:雑草

季節感 [├ガーデニング・エッセイ]

日曜日あたりからセミが鳴き始めました。
梅雨も終わりですね。

数年前から、セミがいっせいに鳴き始める日があることに気がつきました。ある朝、たいていは通勤時、昨日まではなかったはずのセミの鳴き声が響いていることに、突然気がつくのです。気象庁の梅雨の定義はともかく、それは梅雨が終わり、真夏の訪れを告げる合図でした。

ガーデニングにはまって、いろいろ変化がありましたが、そのうちの一つに「季節感」があります。

それまでは、「夏は暑い、冬は寒い」程度の感覚しかありませんでしたが、ガーデニングをするようになって、季節、特に季節の変わり目というものが意識されるようになってきました。

日本には四季があります。春に咲く花もあれば、秋に咲く花もあり、季節ごとの庭のイメージに影響します。また、それぞれに種をまく時期、定植する時期、剪定の時期があり、季節の変化を意識しないと庭の管理ができません。

でも、そんな堅苦しいこと以前に、「芽が出て、生長し、枯れる」そのサイクルを見るだけで季節の変化に気がつきます。そして、植物の変化に伴い、気温、太陽の傾き、虫や鳥の変化にも、少しずつ気がつくようになってきました。

Piccoloさんの本の紹介「八ヶ岳だより」のコメントで、私は「読んでいると羨ましいやら、悔しいやら。」と書きました。この「羨ま悔しい」の中に、柳生真吾さんの「気づき」があります。自分たちが作った雑木林での日々の生活の中で、小さな虫に、鳥に、花に、気がつき、そのかかわりの中で自分のそして仲間たちの想いに気がつく様子が、エッセイからにじみ出ています。とても羨ましく、とても悔しく思いました。

まだまだ大雑把でしか気がつきませんが、少しでも近づけたら、と今では思います。

P.S. リビングのPCが壊れて、アクセスが滞ってます。T_T


タグ:季節

見知らぬ花 - イレギュラーということ [├ガーデニング・エッセイ]

冬にエゴノキの下に草が生えていました。
気にはなったのですが、抜かないでいました。(単にメンドウだっただけ・・・)


つい先週、見てみたところ、花が咲いていました。
紫の小さい花がきれいでした。
他には見かけないのですが、種がどこからか飛んできたのでしょうか?

ブログのタイトルにあるように、私はシステムエンジニアとして庭を構想し、造っています。でも、植物は生き物ですから、完全にコントロールできるわけもなく、それが難しくもあり、楽しくもあります。
私は「イレギュラー」と呼んでいますが、構想外の花が、良い場所に咲いてくれるのは、楽しく嬉しいものです。

あぁ、そうだ。母親に雑草と間違えて抜かないように言っておかなければ。
(我が庭の最大の「イレギュラー」は、母親だったりします。雑草取りには最適な人ですが、いい感じの草だと思っていても、根こそぎ抜いていってしまいます。さすがに、花が咲いていると抜かないのですが。でも、彼女が持ってきて、勝手に植えていく野草や草花は、迷惑なときもあり、思わぬ効果を発揮することもあり、楽しんでいます。)


タグ:雑草

冬の庭 [├ガーデニング・エッセイ]

というわけで、今日は大阪出張のついででよった宝塚ガーデンフィールズ内のシーズンズというガーデンの話・・・のつもりだったんだけど、その前に「冬の庭」ということについて少し書いておきたい。

この手の有料ガーデンはいろいろあるけれど、冬に行く、というと、
冬なんかに行ってなに見るの?と思う人もいるかもしれない。
もしかすると園芸好きほど、そう思うような気もする。

でも、私は、庭は冬にこそ見ておくべきものだと考えている。
花が咲いているときにきれいな庭にすることは、そんなに難しいことじゃないと思う。なんといっても花があるんだから。もちろん、きれいに花を咲かせるのは難しいことなんだけど。

冬は花が少ない。
もちろん冬に咲く花もある。だけど、種類、量ともに春~秋の比ではない。
だけど、それが「日本には四季がある」ということだと思う。
そういう冬があるからこそ、春が待ち遠しく、うれしい季節となる。
「一年中、花でいっぱいにしたい」という人もいるけど、物理的に難しいし、もし無理やりやったとしても、興ざめだと思う。冬らしくない、そう思うからだ。

「冬でも見栄えのする庭」というのは、私のガーデニングのテーマの一つでもある。
そういうわけで、冬の庭を見て、いろいろと勉強中。いまだ、成果にはつながっていないけれど・・・


タグ:季節
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